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当社について


一代目� ゼロからのスタート

梁柏生(リオン・パック・サン) は5歳の時、父を亡くし、母と共に中国から南へ向かった。「新天地の道はきっと金で舗装されているに違いない
と信じ、広東省新会県を出て、マレーシアに到着し、金宝(カンパル)という小さな町に移り住んだ。パック・サンは母と非常に仲が良く、母も息子を育てることに全てを費やした。子ども心に パック・サンは母の苦労を知っていた。何とか母の重荷を軽くしたいと思い、学校へ行くことをあきらめ、働くことを決心した。貧しさから抜け出し, 青年は与えられた仕事をこなし、成長していった。

貧しい母子家庭に育ったことで、強い人間へと成長した。「どんなに困難な状況にあっても、たくましい人はそれを切り抜けて立ち向かう」� パック・サンはこの言葉を信じた。たとえどんな問題に直面したとしても心を開いて取組み、失敗しても屈しなかった。19歳の時、パック・サンは夢を追いかけるように、小さな町を出て、ペナンへ向かった。ペナンは賃金も高く、雇用の機会もたくさんあることから金の扉が開かれた州と言われた。見知らぬ土地に1人で踏み込み、勇気を出して仕事を探し求めた。 そしてついに和珍醤油メーカーで見習いとして働き始めた。

その後2年もたたないうちに、思わぬ偶然の出会いがあり、ある工場を購入することとなった。駆け出しの見習いから生源醤油メーカーの経営者となったのだ。 これがビジネスの世界へ踏み入れる第一歩となった。最初は、限られた資源や不足状態が続き、事業はスローペースだった。立ち退き命令にあったり、金の見通しがつかない状態ではあったものの、挫折を成功のもとと捉え、その後も一生懸命働いた。そして、数年後、自社ブランドの醤油を売る小売店を地元で初めてオープンすることができた。

母に良い暮らしをさせたいとの強い思いをもち、パック・サンは決して手を抜かなかった。自社の「生源醤油」を軌道にのせ、事業を拡大することに力を注いだ。事業がうまくいくようになってから間もなく、友人と共同で大東茶楼の経営に携わることになった。当時、このレストランの隣に河粉製麺工場があった。その工場の経営者は電話をかけるためによくレストランに来るようになり、次第にパック・サンと仲良くなった。パック・サンは、その経営者が河粉製麺工場を閉鎖して移住をするという計画を知ると、これをすぐにチャンスと捉え1200リンギットで工場を買収した。これが新たなビジネスの転機となった。パック・サンは河粉、素麺など製麺事業を開始した。時が経つにつれて、醤油事業が製麺事業にとって代わり、マレーシア全土に進出した。


二代目 � 拡大と夢

 
 
梁醒賢(リオン・セン・ユン)は柏生の息子として、子どものころから父の苦労を見て育った。彼は父の跡を継いだ。幼いころから父を手伝い、自転車で醤油を売りに行ったり、河粉を三輪タクシーに乗って配達したりした。お得意様に頼まれたら、豆もやしや調味料、胡椒なども配達もした。さらに、お得意様から、配達のついでに学校に子ども達を迎えに行くよう頼まれたこともあった。

セン・ユンは父に似て、ビジネスを展開する度胸をもっていた。1975年、香港元朗で有名レストランで菓子作りを学ぶために香港へ渡った。当時、香港の街は美味しそうな食べ物を売る店であふれていた。魅力的な食に触れたことが、後に新たな可能性への扉を開くきっかけとなった。セン・ユンは食への情熱を追い続け、香港で学んだことを持ちかえり、父の事業へと取り入れた。

セン・ユンはマレーシアに帰国後、香港の有名な塩漬け卵パイ、皮蛋酥、老婆餅、蓮の実あんなどの製造を始めた。また彼は町に屋台を開き、これらの菓子の販売を始めた。誰にも負けない、そしてベストを尽くすという思いで、セン・ユンは直感を信じ、中国菓子を市場に広めることに成功し、ペーストと月餅製造を中心とするリオン・イン・ペイストリーを設立した。1981年 セン・ユンは、パンダンペーストの開発・販売に成功し、国内のみならず、シンガポール、タイ、ベトナム、ミャンマー、カンボジア、インドネシア、ブルネイ、中国、香港、台湾、フィリピン、米国、オーストラリア、英国、中東などの国や地域においても人気の商品となった。


3代目 � ビジネスの枠を超えて

梁国輝(リオン・コック・フェイ)は、セン・ユンの唯一の息子であり、幼いころからビジネスと共に育ち、父からその経営学を学んだ。コック・フェイは、自ら従業員と共に製品の製造に関わっていた父を尊敬し、憧れを抱いていた。コック・フェイは幼い時から父の職場で多くの時間を過ごし、そこが遊び場にもなっていた。毎日、コック・フェイは父の手伝いをしながら、熱心に作業の技を覚えていった。

リオン・イン・ペイストリーは、長年の事業を続ける間に、環境の変化に適応し、また中核となるオリジナル製品や市場のニーズに合わせ事業を拡大し続けながら成長を遂げた。2004年 セン・ユンは家業を息子に譲り、それ以降コック・フェイが代表取締役社長として経営に携わっている。事業拡大のため、2007年にジュルへ工場を移転。最新の機械や技術を取り入れ、原材料から製品となるまで厳格な管理体制を整えた。月日が経つとともに、リオン・イン・ペイストリーは、その質の高い製品と様々な種類と味の蓮の実をベースとしたペーストが評判となった。工場移転から間もなく、リオン・イン・ペイストリーはコック・フェイ主導の元、世界へと事業を拡げ、国内はもとより、シンガポール、インドネシア、ベトナム、タイ、ドバイ、英国、米国、その他8か国や地域に顧客をもち、製品を提供している。

コック・フェイにとって、彼が選んだ道は決して容易なものではなく、成功までに相当な忍耐力が必要だったと話している。この業界は革新的な考えを持つ人が必要とされる。事業を進める間に多くの困難や障害が立ちはだかったが、コック・フェイは常に強みを生かし、失敗も成功も同じように受け入れたと語っている。コック・フェイにとって、経営を維持していくことは、ゼロからビジネスをスタートさせることと同じくらい難しいことであった。父の元で働き始めた頃、コック・フェイは原材料の調達から商品の配達手配など下流工程から覚えたいと父に頼んだ。それによって、工場がどのような流れで動いているかをよく理解できるようになったのだ。コック・フェイは機械の操作も学び、新しい技術を取り入れ、熟練労働者へアドバイスを求めた。

コック・フェイは26歳の時、月餅製造に使っていたラードを使わないハラルの月餅を作ろうと思い立った。このアイディアは、家族から反対にあったものの、コック・フェイは一生懸命取り組み、計画を立て実行すれば、ハラルの月餅が作れると信じていた。その後、JAKIM(マレーシア政府のハラール認証発行機関)からハラル認証を得ることに成功し、ペナンで初めてムスリム市場にハラルの月餅を提供したパイオニアとなった。それ以上に、自分が主張したことを成し遂げられたということを家族に証明できたことが嬉しかった。

コック・フェイは食品を扱う企業として、食品の安全管理を常に意識していた。そのため、父の許可を得て革命的な改革を行い、製造現場では確立された基準を遵守し、各製造工程が厳重にコントロールされた環境下で行われるような体制を整えた。工場は適正製造規範 (GMP) に従い、 HACCP(危害分析・ 重要管理点)、 ISO22000:2005 (食品安全衛生を認証する世界で最初の世界標準規格)及びMeSTI (マレーシア健康省の食品安全プログラム) 認証を受けた。コック・フェイは、顧客のニーズに応える製品を製造するためには、事業全体でこのような品質保証システムを取り入れることが不可欠であると考えている。

コック・フェイが経営を引き継いでから、ビジネスは成長を続け、最新の技術を備えた機械の導入により、従来の伝統的手法から現在の洗練された製造プロセスへと進展した。より質の高い製品を効率的に提供したいとの強い思いで、これら機械化プロセスを実現するために大規模な投資が行われた。


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